心理学・医学を勉強していると出てくるガレノス。
いったい何をした人なのか、いろんな文献があって迷いますよね。
今回は、ガレノスの人生と思想について広く浅く簡単にまとめてみました。
ガレノスって誰?簡単に
結論、ガレノスとは、古代ローマ時代の名医師です。
ガレノスは、主に解剖を用いて生物の体を調べ、多くの著作を残しました。
ガレノスは、いったいどんな人生を歩んだのでしょうか? 詳しく見ていきましょう。
ガレノスの人生
ガレノスの生い立ち
ガレノスは、129年9月にペルガモンに生まれました。
ガレノスの名前の由来は?
ガレノスという名前はギリシャ語で「穏やかな人」という意味です。ガレノスは、ペルガモンのガレノスとも呼ばれますが、著作にはCL(クラウディウス)・ガレノスと書いてあります。しかし、クラウディウスとはローマ人という意味で、ガレノスは自称ペルガモン人ですw よって、クラウディウスではなく、クラリッシムス(最も賢明な)やクラリスムス(輝く)ではなかったのかと予想が飛び交います。
ペルガモンは現在のトルコ西部、エーゲ海地方のイズミル県に位置し、ベルガマと呼ばれています。
父はアエウリウス・ニコンで、裕福な建築家でした。
ガレノスファームという農場で農業もしていました。
父が温和で親切な性格だったのに対し、母は怒りっぽい性格だったそうです。
女性召使を殴ったり、怒鳴ったりしていたようです。
そんな家庭に生まれたガレノスですから、父を尊敬し、母をよく思わず反面教師にしていました。
ガレノスの性格は父に似て穏やかで丁寧だったとされていますが、母親譲りの悪い癖が後々危機をもたらします…
父 ニコンとの別れ
ガレノスは14歳のころから学校で哲学、建築、農業、天文、占星などについて学んでいました。
17歳のころに父から医学の道を勧めてもらって医者を目指し、地方の神殿で4年ほど学びました。
地方の神殿?
アスクレピオンという神殿で、医学の神アスクレーピオスを祀っているところです。ガレノスはそこでサキュロスから医学を学びました。
なんとこの時、父はガレノスが医者になる夢を見て、医学の道を勧めたそうです。
しかし148~149年、ガレノスが20歳のころ、大好きな父ニコンが亡くなってしまいます。
父がいなくなった故郷で母親と二人で暮らしたくないガレノスは、旅に出ることを決意します。
アレクサンドリアで解剖学を学ぶ
故郷に母を残してガレノスはスミルナ、コリント、クレタ島、キプロス島を旅して学んだとされています。
23歳の時にアレクサンドリアで解剖学に出合い、人体解剖を行いました。当時のローマ帝国では唯一、人体の医学解剖が許された地だったんです。
解剖学なしの医者は、設計書なしの建築家だ。
ガレノスがアレクサンドリアで解剖学を学んだ時の名言として知られています。
解剖学がガレノスにとってどれだけ強いインパクトを与えたかがわかる言葉ですね。
そして亡き父の職業である「建築」を取り入れるなんて…
ガレノスがアツい人物であるのが伝わってきます。
ペルガモンで剣闘士の外科医に
ガレノスは27歳の時にペルガモンに帰郷しました。
剣闘士の訓練所で外科医を務めるためです。(母はそっちのけですね)
剣闘士とは?
見世物として闘技会で戦う剣士のことです。剣闘士には主に奴隷や罪人が選ばれ、剣闘士同士もしくは猛獣と戦いました。もちろん、一般人の方も剣闘士として参加することができます。
そこでガレノスは外科医として4年間、剣闘士の外傷の治療にあたりました。
外傷は「体内への窓」である。
ガレノスと言えばこの名言ではないでしょうか。
外科医として外傷の治療をする中で、また多くの発見をしたのでしょう。
私としては怪我をしたらすぐ絆創膏でカーテンを閉めたくなりますが、ガレノスにとっては学びの貴重な窓だったんですね。
ローマへ
解剖学の知識と外科医としての実力を手に入れたガレノスは、ローマでさらなるレベルアップをめざします。
当時のローマには医学派がたくさんありましたが、ガレノスはどの学派にも所属せず、患者の治療に専念しました。(いい)⇠かっこいい
ガレノスは162年にローマへ行き、多くの患者の治療にあたりました。
その中で、当時の執政官フラウィウス・ボエティウスも治療していました。(実はキーパーソン)
患者を診る以外にも、ガレノスは講義や動物の公開解剖も行いました。
追剥と医者とは差別がない。
ただ追剥は山野で、医者はローマの真ん中で、悪事を働くだけのことだ。
ガレノスがローマの医者を見て放った言葉です。
追剥とは?
通行人から衣服や持ち物を奪う強盗のことです。山で活動する場合は、山賊と似たようなニュアンスです。
ガレノスは、自分の医学の知識が正当に評価されるべきだと考えていました。
ガレノスにとって、自分の知識を勝手に盗んでいくローマの医者たちは、追剥と同じようだと批判したのでしょう。
ガレノスは執筆活動や講義、公開解剖でローマの医者たちを批判して、持ち前の知識で論破したことでしょう。
普段は穏やかな性格ですが、ローマの様々な医学派の医者には、母親譲りの性格が悪い癖として出てきてしまったようです。
この悪い癖がガレノスに悲劇をもたらします。
再びペルガモンへ帰郷
166年にガレノスは再び故郷のペルガモンに帰ります。
理由はローマで疫病がはやったため、ペルガモンに一人残した母が心配になったそうです。
疫病って?
この疫病は「アントニヌスの疫病」だと言われています。東方遠征に行っていた兵士が持ち帰ってきてしまったようです。
…本当でしょうか? 母が嫌いで故郷を飛び出し、以前帰郷したのは外科医になるためでした。
そんなガレノスが母を心配して帰郷する。というのはやはり建前でして、
以前からローマの医学者たちを批判していたガレノスは、怒りと嫉妬を覚えたローマの医者たちによって、命を狙われてしまったのです。
母親譲りの悪い癖で、まさか命を狙われることになろうとは。
再びローマへ帰還
168年、ガレノスは再びローマにもどってくることができました。なぜでしょう?
当時のローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスには14人の子供がいました。しかし、その中で後継ぎになれる男の子は2人しかいません。そして長男はすでに亡くなってしまって、次男のコンモドゥスは体が弱いという危機的状態にありました。そんな時、執政官のフラウィウス・ボエティウスが、以前自分を治療をしたガレノスを帝室の侍医に推薦!
執政官のフラウィウス・ボエティウスによって、見事ガレノスは帝室の侍医になりました。
ガレノスはマルクス皇帝がなくなった後も、次男のコンモドゥスの健康管理に努めました。
その後、コンモドゥスは剣闘士として活躍できるまで成長しました。
著作のほとんどが焼失
たくさんの著作をしたと言われるガレノスですが、192年に火事でその大半を失うことになります。
火事の後も執筆活動を続けたそうです。なんて熱心な方でしょう…
現在残っているガレノスの著作は150冊だと言われています。
199~201年に亡くなった?
ローマ1の名医となったガレノスですが、199~201年に亡くなったとされています。
詳しい経緯ははっきりしていませんが、少なくとも70歳まで生きたことは確かです。
古代ローマに多くの影響を与えたガレノス。この後も波紋は広がっていきます。
ガレノス死後の影響
200年 ガレノスの著作はローマ帝国で医学の基礎として広く読まれました。
395年 ローマ帝国が東ローマ帝国と西ローマ帝国に分離しました。
東ローマ帝国 | 西ローマ帝国 |
ガレノスの著作がギリシャ語で、医学の基礎として読まれた | ガレノスの著作の1部を失う 修道院や学者が保存 |
7世紀ごろイスラム世界に伝える | 406年に滅亡 ガレノス医学衰退 |
東ローマ帝国 | イスラム世界 |
ガレノスの著作をアラビア語に翻訳 医学の発展に寄与 | |
1453年に滅亡 | 12世紀にヨーロッパへ逆輸入 |
12世紀 イスラム世界からヨーロッパに逆輸入した後、ラテン語に翻訳されました。
再びヨーロッパの医学に取り入れられたガレノスの著作は、15世紀ごろ、ルネサンス期まで重要な位置を占めました。
ガレノスの思想
四気質説
ガレノスは四気質説を提唱したことで有名です。
心理学を学んでいる人は四気質説からガレノスを知ることが多いのではないでしょうか。
心理学の歴史で一番最初に扱うことも多いでしょう。
四気質説とは、4つの体液のバランスにより「多血質」「粘液質」「胆汁質」「憂鬱質」の性格に分けられるというものです。
血液が多い人は「多血質」で、社交的で気前が良いですが、傲慢で気移りしいやすいです。
粘液が多い人は「粘液質」で、穏やかで公平ですが、鈍感で臆病であるとされます。
黄胆汁が多い人は「胆汁質」で、行動的な熱血男ですが、短気で激しやすい性格です。
黒胆汁が多い人は「憂鬱質」で、詩的で倹約家ですが、抑うつ的で社交を好みません。
これらの性格は、四体液のバランスを整えてあげることで改善できると、ガレノスは考えました。
四体液とは?
医学の父と呼ばれる古代ギリシアの医者、ヒポクラテスが提唱した四体液説で定義された4つの体液のことです。血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁を指します。
四気質説についてより具体的に知りたい方は、こちらブログで解説しています。四気質説のもとになった四体液説についても解説していますので、ぜひご覧ください。
解剖による発見
ガレノスは、アレクサンドリアで解剖学に出合い、その後動物解剖を通して多くの発見を得ました。
人体解剖は禁じられていたので、主に豚、バーバリ・マカク猿、山羊を解剖しました。
観察を用いて自然界の法則を見極めるというアリストテレスの考えから、解剖学を重要視したのではないでしょうか。
脳について
- 脳を複数の部屋に分割
- 脳の神経を7対発見(現在は12対発見されている)
- 視床の発見
- 大大脳静脈(ガレノス静脈)の発見
神経について
- 抹消神経は運動と感覚をつかさどることを発見
- 声を出すための神経は反回神経である 著作『神経の解剖について』 生きた豚を解剖するとき悲鳴を挙げさせないため喉頭を切断したことから
- 腎臓からにょうがおくられることを見るために、生きた動物の尿管を結んで、脊髄の神経を切断して麻痺させた
その他の臓器について
- 身体から切り離した心臓が脈打つことから、心臓移植を予想
- 動脈には空気ではなく血液が流れていることの発見
また、アリストテレスが「心は心臓にある」と考えていたのに対し、ガレノスは「心は脳にある」と考えていました。
しかし、あくまでも動物実験であるため、間違いも犯しており、後に指摘されています。
- 動脈と静脈は別々であると思っていた (実際は繋がった管です)
- 奇網が人体にもあると考えていた (奇網=人体にはない細い血管の集合)
また、流血に止血帯を使うことを避け、治療の一環として瀉血を推奨していました。
瀉血とは?
瀉血は、体内の余分な血液を取り除くことで体液のバランスを整えると信じられていました。ガレノスは、病気の原因を体内の体液の不均衡と考え、その治療法として瀉血を推奨しました。しかし、流血に変わりないですから、貧血や体力消耗のリスクがありました。
思想 考え
ガレノスは、「単一の創造主による目的を持った自然の創造」というプラトンの思想に似た考えを持っていました。
そして、アリストテレスと同じで目的論(テレオロジー)的な思想を持っていました。
目的論とは?
生物や構造は、ある目的をもって存在しており、存在するものには目的があるという考え方です。今では適応主義(目的ではなく偶然への適応の結果であるという考え)や進化論(形質は自然選択により、より適した形質のほうが残りやすいという考え)に批判されてます。
また、霊魂がプネウマ(生命エネルギー)と四体液を介して肉体を動かしていると考えていました。
後世では、プネウマはキリスト教では聖霊として考えられ、生きるためには、取り入れた栄養にプネウマが必要だと考えられていました。
ガレノスは精気について次の3つに分けられる考えていました。
- 脳内…動物精気(Pneuma physicon):運動・知覚・感覚
- 心臓…生命精気(pneuma zoticon):血液と体温の統御
- 肝臓…自然精気:栄養の摂取と代謝
健康の三要素である食事・睡眠・運動については次のように考えています。
食事について
- 食べ物が体内の熱で消化されるときの温度の乱れによって四体液のバランスが崩れ、病気になる
- 養成法を軽んじると、胃に悪い体液がたまる
- 病気は乱れた体液の反対の性質をもったものを食べることで治癒される
- 合食を禁止し、消化にいいモノから食べるようにコースを考えたほうがいい
(詳しくは「四体液説」のブログへ 四体液説とは?)
睡眠について
- 夢が体の病気を示してくれる 著作『夢の兆候について』
運動について
- 高齢者には適切なマッサージや療法が必要 著作『養成法について』
- 適切な運動方法がある 著作『小さな球を使った運動方法』
薬学
ガレノスは、地方の宮殿で医学を学ぶ中で、地方の人から薬の知識も得ていました。
たくさんの鉱山で、貴重な薬剤を一生分収集していたそうです。
現在でも、オーダーメイドで薬を作ることを「ガレノス処方」と呼ぶそうです。
ガレノスはコールドクリームを作ったともいわれています。
コールドクリームとは?
化粧品として保湿や保護に使われる冷たい感触のクリームのことです。
薬も「熱」「冷」「湿」「乾」の性質を2つずつ持つとされ、それにより体液のバランスを改善して病気を治癒すると考えていました。
ガレノスって誰?まとめ
ガレノスの人生や思想について簡単にまとめてみました。
勉強熱心で多くの発見をし、医学と心理学の発展に寄与した古代ローマ時代の名医ガレノス。
しかし一方で、母親譲りの悪い癖でライバルを論破してやり込めたことにより怒りを買い、命を狙われてしまいました。
他の人より知識を持っていても、正しいことを正しいと突きつけることが良いことだとは限らないということですね。
私たちも、多くの知識に過信せず、診療中の彼のように穏やかな態度で人に接したいものですね。
それがきっと、丁度いい調合の薬なのだから